精神の追行

 人はいつ「大人」になるのだろうか。
 もちろん制度的な話ではなく、個々人がなんとなく持っている、これができるようになったら大人だよ、と言う基準や諸条件のことである。こういうことを考えるようになる前、少年だった僕の中の「大人」とは「親」のことであった。結婚をして、子供を持つことが大人になるということだと思っていたのだ。しかし世の中には子供のままに親になってしまった人がいるなと思った時があり、これは違うのだと感じた。
 それで今「大人」についてどう考えているかというと、まず大人というのは0か1のデジタルのようなものではなく、アナログなものということだ。あの人は大人、この人は子供というような絶対的なものではなく、この人に比べてあの人は大人だ、というような相対的なものなのではないかと思っている。そう考えると少年の僕が考えていた親=大人という図式も、子供からしてみれば親は間違いなく大人なのだから、あながち間違いではなかったのかも知れない。そしてその程度を測る指標も、それ1つではないが大きいものとして、様々なものに対する「許容の程度」が挙げられるのではないかと考えている。「妥協の上手さ」と言い換えてもいいかも知れない。

 そもそもなんでこんなことを今更、修士2年になろうかという僕が考えているのかというと、いつまでも自分は大人になりきれない、子供だなと感じることが少なくないからだ。そしてそう感じる瞬間というのは、大抵何かを"受け入れられなかった"時で、その裏を返せば受け入れる懐の大きさが大人の程度を示すものなのではないかということだ。そしてこの許容には、大きく分けて2つ、自分に対する許容と他人に対する許容があるように思う。

 自分に対する許容というのは言ってみれば承認欲求のようなもので、心理学の用語では「自己受容」*1と言われたりする。地位や肩書のない子供(若者)が誰かに認められたいと思うのはいかにも子供という感じだ。しかし僕は自分が世界の中心だと思っているタイプの人間なので、自分を受け入れられないということはほとんど無いように思う。この傲慢さが子供っぽくもあるし、ごく稀に無能感に襲われることが無くもないが。いずれにせよ僕が受け入れられないのはどちらかと言えば自分よりも他人だ。

 なぜ僕にできることができないのか。僕の考えていることを理解してくれないのか。
もっと言えばなぜ僕に無償の愛を提供してくれないのか、これは完全に僕のエゴであって、自分が間違っていることは百も承知だが、心には何故か苛立ちやわだかまりが残ってしまう。

 まぁこんな風に思ったり考えたりしていられるのも若さだし大学生の特権だなと思わなくもない。「四十にして惑わず」*2という言葉があるが、孔子でさえ40までは惑うことがあったのだ。

 しかし現代では四十にして惑う人が少なくないらしい。「ミドルエイジクライシス(Midlife Crisis)」といい、職場では中間管理職になって上司と部下の板挟みになった中高年男性が、自分の子供の将来や両親の介護に対する不安、さらには自分の老後に対する不安から、うつ病や不安症になることを言うようだ。現実逃避から不倫に走ってしまうケースも多いとか*3

 「四十にして惑わず」は孔子が自分の人生を振り返って言ったものだとされているので、これ通りの人生を歩める人は昔の中国でも、現代の日本でも少ないのではないかなと思う。一生惑ったまま死んでいく人も少なくないのかも知れない。ひょっとしたら立つことすらままならない人だっているのかも知れない。今僕は24歳だが、理性では理解できているのに感情が、精神がそれに追いついてきていないように感じる。あと15年もすれば、今のように惑うことは無くなるのだろうか。

 

 今週は3日ほど寝込んでいたのが、熱に浮かされたような頭で考えていたのは、おおよそこんなことである。何度推敲しても、本当に高校生みたいな、倫理の授業みたいなこと考えてるなという感じの文章だが、考えてしまったものは考えてしまったのだから仕方がない。

 

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■編集後記

前回とタイトル揃えてみたけど考えるのしんどい

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*1:Veritas 心理教育相談室

http://homepage3.nifty.com/interlink/news-10.html

*2:

春秋時代の中国の思想家である孔子の『論語』にある有名な一節。
「子曰く、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」

これは「十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった」という意味である。

*3:ありがとう文春